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日本の大災害(火災)
2005-07-17 Sun 09:57

昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物をもとに江戸の「火災」について記してみたい。

火事と喧嘩は江戸の華という。東京災害史をひもとくと、本当に大火が多かったことに驚かされる。江戸時代を通じての大火と呼べるものは約100回を数えられる。なかでも江戸の三大大火災といえば、明暦三年(1657年)の振り袖火事、明和9年(1772年)の行人坂火事そして文化三年(1806年)の丙申の火事をいう。この三大火災のうちもっとも悲惨であったのが、明暦三年の振り袖火事である。上杉年譜によれば焼死者約3万7千人ということであるが、冬場で大吹雪になったため溺死や凍死者を含めると約11万人が犠牲になったというから、すさまじい。

火元は有名な本郷丸山の本妙寺だけでなく、3カ所といわれており、武家屋敷1200、寺社300、町屋120町が焼失し、江戸城も西の丸を除き本丸、二の丸、三の丸、天守閣が焼けた。江戸市中の6割が焼けたという。

むさしあぶみ」はその惨状を次のように伝えている。『昨日十八日の昼より焼け起こり・・(猛火は)十町二十町をへだてて、飛びこえ、燃え上がりけるほどに・・諸人にげまどいて、焔にこがされ、煙にむせび・・家々に火かかれば、すべきかたなく、・・人と馬とおしあい、もみあいたれば、これにふみころされ・・火しずまりて後つぶさにしるしつけたれば、およそ十万二千百余人とぞかきたりける。』

江戸城も焼けたため、将軍は正月恒例の増上寺参詣を中止した。保科正之は代参の帰途、至る所に焼けただれた死骸が積み重なっているのをみて、調査を命じたが、浅草あたりまでみな同じような状況と報告されたので、緊急に対応策を講じた。幕府は応急対策として救小屋を建て、2月初旬まで罹災者に粥を配給するとともに、16万両を銀に換えて江戸八百町の市民に下賜した。このほか、武家の救済として邸宅を消失した大名には一定の額を貸し付けた。旗本にも下賜金または拝借金を許したという。また、応急的に治安維持のために厳重な警備をし、流言と物価高騰を禁じるとともに、都市の復興として橋の仮修復、市街の改変に乗りだした。市街の改変の第一歩として新道を作っていったが、道幅を広げ、防火堤を築き、所々に空地と広小路を設けた。また、災害に備えて避難場所まで考慮したという。

このように各方面で大改造を行ったために、町屋の区域を広げなければならなくなり、小石川小日向、溜池などの築地や木挽町海岸の埋め立てなどを実施し、江戸は一層海面に進出することになった。いわゆる「大江戸」の規模は明暦の大火後に定まったといってもよい。

なお、火元の本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。

これから現代の東京でも大気が乾燥していくので火事が起きやすくなる。防火に一層留意して、無事、新年を迎えたいものである。

【引用文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)

【写真】東京消防庁(むさしあぶみ)

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大正八年スペイン風邪
2005-07-16 Sat 00:00

昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物をもとに「伝染病」の流行について記してみたい。

まず、伝染病が災害なのかという疑問があるだろう。国の災害対策基本法では、災害を「暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震、津波、噴火その他の異常な自然現象または、大規模は火事、爆発、放射性物質の大量放出、多数の者の避難を伴う船舶に沈没等の原因により生ずる被害」と定義している。従って、伝染病の流行は災害対策基本法でいう「災害」ではない。

にもかかわらず、江戸時代から赤痢などの疫病、麻疹、痘瘡、風邪、コレラ、ペストなどの打流行が72回も発生し、そのたびに多くの人が命を落としているのをみると災害と呼んでもおかしくない。なかでも、その3分の1が風邪であり、これは21世紀の現代でもまだ治しようのない「災害」といってもよいだろう。

1918年(大正7年)頃、スペインに始まった世界的なインフルエンザの大流行がわが国にも上陸し、その後3年間にわたり、感染者2千5百万人、死者38万人を出した。いわゆる「スペイン風邪」である。東京市では大正7年から8年にかけていったん治まったかに見えたが、大正8年に再び大流行し、死者約7500人を出した。翌年も大流行し、5千人を超える死者が発生したという。

東京災害史によると、『東京市民は連日生きた気がない程で、死者夥しく、・・・東京市中一時は焼場が混み合って大騒ぎをする』ほどであったという。このため東京府、警視庁は共同で次のような告諭を発し、東京市民に予防を呼びかけた。これは現在でもそのまま通用する。

1.室内は清潔に努め常に日光の射入並に空気の転換を図ること

2.身体衣服を清潔にし且つ被服寝具等は時々日光に曝すこと

3.衆人の集合する場所には成る可く立ち入らざること、もしやむを得ざる場合または電車汽車等の内にては呼吸保護器を使用し又は布片を以て鼻口を被うこと

4.外出先より帰宅し足るときは時々温水又は食塩水にてうがいをなすこと

5.患者又はその疑いある者に成る可く接近せざること

6.頭痛発熱等身体に異常を認めたる時は速に医師の治病を受けること

7.患者は成る可く別室に隔離し看護人の外は出入りせざること

8.患者の鼻汁喀痰及之に汚染したる物件並に患者の居室等は医師の指示を受け相当消毒すること

9.患者用の被服寝具器具類は之を区別し、食器は使用の都度煮沸し若くは之に熱湯を注ぐこと

10.医師に就き予防液の注射を受けること

今春に始まったSARSの感染に対し、香港では予防接種がはじまった。わが国でも厚生労働省が今冬のSARS予防対策をスタートさせた。今冬の予防がうまくいくことを願うばかりである。災害の歴史を見ていると、スペイン風邪が終息した3年後に関東大震災が起きたという社会混乱の継続性が見えてしまう。

【引用文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)

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関東大震災
2005-07-15 Fri 00:00

昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物からまもなく80周年を迎える関東大震災の猛火について記してみたい。

「筆舌に尽くしがたい」という言葉があるが、当時の新聞社にはかなり筆の立つ人がいたものと思われ、猛火に立ちすくむ人々や情景を眼前に展開してくれる。関東大震災における火災被害は134カ所の出火から始まった。引用してみたい。

「・・・陽漸く沈まんとする頃より猛火は山の手方面を残して殆ど全市を押し包み、黒煙天に沖し、折柄の旋風は倍々威力を加えて紅蓮の焔は縦に毒舌を閃かす。其の区域の広きと断水のため近衛と第一師団の軍隊も警視庁の消防も施すに術なく徒に奔命に疲るゝのみである。斯くて(中略)走り、喘ぎ、倒れ、傷き、溺るゝ間に四谷、神田、下谷、浅草方面を甜め尽くした猛火は本郷、千住、深川、日本橋、京橋、麹町、芝、赤坂方面に於いていよいよ暴威を逞くし、火元は遠く軽井沢方面より望み得るほどの強さとなった。最早人間の力ではこの暴虐に克てない、凡てを自然のなすがままに委するのみである。・・・」

死亡者の83%、行方不明者の90%、重傷者の62%はこの猛火によるものであった。物的被害も火災によるもの約55億万円、震害によるもの約1億円であったという。凄まじいまでの火災の恐ろしさであった。

ところが復旧は意外と早く、2日後には日銀が営業再開、3日後には山手方面の水道が復旧し、夜には電気も復旧した。6日後には東京市電が運転を再開し、1週間後までには破損した13の橋の修理が行われ、開通したという。当時、「危機管理」という言葉はなかったと思われるが、関係者が自らの「社会的使命」を自覚して、復旧・復興に全力を傾けている様が克明に描かれている。

今、東京で懸念されている東京直下地震では824件の出火と延焼棟数約38万棟が想定されているが、実はこの数字は関東大震災の焼失棟数約41万棟とあまり変わらないのである。特に、環状7号線沿線、中央線沿線のいわゆる木造住宅密集地域での延焼被害が大きいとされている点が心配である。

9月1日を前にして改めて東京における地震火災の恐ろしさを再確認しておきたい。

【参考文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)

【写真】東京消防庁

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関東開国以来未曾有の大水
2005-07-14 Thu 00:00

昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物をもとに江戸開府400年に当たる今年、江戸時代の大水害について記してみたい。

寛保2年(西暦1742年)は八代将軍吉宗が行った享保の改革の総仕上げともいうべき公事方御定書制定の年である。その年の旧暦8月1日から2日にかけて江戸の西側を大型台風がゆっくりと通過し、江戸市中は大暴風雨のため武家屋敷、町家などが壊れるなどの被害が出た。この台風とその前から降り続いていた大雨により利根川、荒川が氾濫し、江戸市中はもちろん広く関東一帯から信州あたりまでが大洪水となったという。「関東開国以来未曾有の大水」といわれた災害である。

「東京災害史」によると『利根川の大水は滔々として江戸へ押しよせ、江東方面は忽ち水びたしとなり、大川筋も新大橋、永代橋が破損した。三日夜には・・・大水は小菅から本所、深川に侵入、四、五両日を絶頂として浅草、下谷から江東一帯は泥海と化してしまった。八日もまた大暴風雨で、本所や深川は再び増水し、神田川の出水は目白駒井町の埋樋を崩壊、大洗堰の土手も決壊して牛込に入り、音羽九丁目の上水堤も切れた。水戸邸から富坂下は二、三尺、小日向、江戸川などは五尺まで、いずれも床上に浸水した』という。

「続むさしあぶみ」には、飛鳥山から見渡したところ、川口岩淵方面は一面水で、川口の善光寺の屋根しか見えないと記されており、荒川筋の郡部地域も利根川地帯におとらず洪水の被害を受けた様が見て取れる。死者は数万ともいわれており、儒学者太宰春台も「本朝にて近世是ほどの死亡は多く有るまじくと存候。」と述べている。幕府は被災直後に江戸市中だけで延べ19万食の給食を行い、それに使用した白米は360万石(約54,000トン)にのぼった。他の地域とあわせると莫大なものであったであろう。

この水害には様々なエピソードが伝承されている。もっとも興味深いのは、幕府儒臣松崎尭臣が著書「窓の須佐美」のなかで、『近年・・・みずみち水道をかへ、古池を埋め、山をあらし、樹を伐りて、山々はげ山に成ぬ。かかることのつのりて江戸開しより以来聞もおよばぬ大水度々に及べり』と批判していることである。昭和27年の「東京災害史」でもカスリーン颱風などにおける自戒として紹介しているが、これはそのまま21世紀の今日の都市型水害についてもあてはまることである。国の中央防災会議が嘆く「生かされない教訓」のひとつであろう。

【引用文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)

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東京主義と京都主義
2005-07-13 Wed 00:00

東京大学の藤森教授が次の点を指摘している。

(1)東京主義

明治時代に入って、東京では大火(1回100棟以上焼失)が年々増加し、明治14年(1882年)には約2万棟も焼失している。この14年間で東京の中心部はほとんど燃えたといってよいほどである。このため明治政府はこの年、東京防火令を施行し、建築物の耐火・防火構造化に努めることになった。耐火構造化の試みは明治時代に入ってからすぐに着手されており、明治6年に銀座の赤レンガ化を進めたが、このためだけに当時の国家予算の6%も支出することになり、東京全体の赤レンガ化は断念したという。

東京防火令では路線防火と屋上制限(屋上を不燃化する)という方針がとられ、京橋、日本橋、神田区の主要街路を防火路線に指定し、道路に面した家はレンガ造り、石造り、土蔵造りのいずれかで建築することになり、結果として黒漆喰の土蔵造りの家がもっとも広まった。これを契機に東京の景色は一変していったようである。

この法律の期限内に実施できなかった建築物については5年間の延長が認められたが、延長する際には立て替え費用の積み立てが強制されたという。今の政府と違い明治政府のえらかったところは、この立て替え費用の積み立て金に高利を付けてあげたところである。この措置により、積み立てをする人が急増し、路線防火と屋上制限が急速に促進した。

東京では1923年の関東大震災と戦災をのぞき、明治25年(1893年)を最後に大火は発生していない。

(2)京都主義

1708年、京都は宝永の大火に見舞われ、多くの屋敷や町家を焼失した。その後、1788年に有名な「天明の大火」が起きた。

この大火は全市の90%を焼き尽くすほどの猛威を振るった。御所と公家・武家屋敷、寺社を含め、焼失家屋は37000軒に及び町のほとんどが灰燼に帰した。秀吉時代から100年も費やして築き上げられた京都は再び甚大な打撃を被った。

しかし火災による破壊が、城下町が孕んだ問題を一掃し、1000年を迎える京都の若返りの秘薬となった。

大火後の京都は、次世代都市へと脱皮する好機と見て、幕府と朝廷、富を蓄えた町衆によって、思い切った都市計画が実行された。明治時代になってからこのインフラを基盤に大火は発生していないが、その陰には東京とは異なる防火の仕組みがあった。

京都では、戦乱の間、権力者は誰も町や民衆を守ってくれなかったため、京の町民は自ら団結し、足軽兵士・土一揆農民などの外部の敵から町を防衛する必要があった。町組(町の集合体)はこうした町を防衛する仕組みである。

この町組を形成・自治運営(方策を練り、ルールを作る)し、町中に堀や柵をめぐらせて自衛・武装し、家が焼かれれば火災対策を考え建て直していた。こうしてハードだけでなくソフト対策の両面から大火に対する防衛体制をつくり上げ、京都の町を守ってきたのである。この「自治独立」とも言うべき京都主義が京都を根底から支えるエネルギーとなる。

東京とは異なる大火対策の取組みである。

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| 月讀 |
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